オレ(たち)よそ者

 ”あなたたちが生きているこの社会で、もっとも価値があるとされているのは「生産」です。
  あなたたちは、大学を卒業して、さまざまな企業に就職し、なにかを「生産」することを期待されています。あるいは、結婚し、家庭を築き、子どもを「生産」することを、といってもいいかもしれません。そして、それに寄与できない者は、社会から「余計者」と見倣されるのです。”


 ”わたしたちが「文章」と呼んでいる、ことばのシステムは、人間という生きものが「効率的」にコミュニケーションをはかるための道具ということになるでしょうか。
  その「文章」が、もしくは、そのことばが「効率的」であるためには、誰にとってもわかりやすいものでなければなりません。それから、その意味も、曖昧ではなく、できるだけ明確な方がいいでしょう。
  しかし、そうでないものが、そうでないとしか思えないものが、この世には存在します。
  たとえば、詩とか小説です。その中には、わかりにくいものや意味が曖昧なものがたくさん存在しています。それは、おそらく、それを書いている作家や詩人が、教育されているおとなたちにではなく、子どもや老人に似ているからなのです。”
高橋源一郎『13日間で「名文」を書けるようになる方法』より)


引用が長くなってしまった。申し訳ない。
末端ではあるけれど、「ことば」に携わる仕事をしている者として、極めて示唆に富む。


「教育」とは、なにかをやりとげようとする時に、一定の時間内で、それをできるだけ速くすることが望ましいという「社会」的なメッセージを刷り込むために存在している。


のだが、


実のところオレは、職場においても家庭にあっても、なにかを「生産」して来た、しているとは言い難い。
オレは、「効率的」にコミュニケーションをはかるための道具としての「ことば」を教えようとしたことがない。
オレの仕事は、「効率」とか「生産」とは遠く離れたところで、「社会」に属している部分の他にある、無意識のうちにそこから逃れようとする部分を覗き見て、覗き見させて、あれこれ思うこと、思わせることだと思っている。


そんなこと考えて仕事している人間に、給料払ってる「社会」ってのも懐深いっちゃ深いわけで、まんざら捨てたモンでもないかも知れんけど……。
源ちゃんのこの本にしても、大学の講義録。大学は金払って源ちゃん雇ってるわけだし。


にしても、


オレの疎外感ってのが何に由来しているものなのか、よぉ〜くわかりやした。
オレは、子どものまんま老人になっていく「余計者」なのだな。道理で「おとなたち」とは話が合わないわけだ。なるほど。


遅まきながらだが、ロックやってるってのも筋が通ってる。ロックって「よそ者」の遠吠えですものな。


源ちゃん、面白い「ことば」を、どーもありがと。