学びと動機

担当している講座、『古典』の考査。


採点したが、予想通りごく少数の生徒さんを除いて、まーったく何の勉強もしていない。
1分たりとも準備していない。恐るべき、見上げた根性である。


宇治拾遺物語』やら『伊勢物語』やら『枕草子』やら『徒然草』やらから幾つかのテクスト読んだわけだが、


どういう時代背景の中でどういう人物が何を思って書いたのかなどいうようなことはもとより、相当の時間かけて読んだテクストのあらすじはおろか、出典、作者名すら覚えていない。(事前に「出題するよ」と予告している……)


けれども最近は、そういう実態を、悲しいとか嘆かわしいとか思わなくなってきた。


オレは、ガキの頃から文学にかぶれていたから、たとえ大学受験に必要でなかったとしても、先人の書き残したテクストの数々、面白おかしく読んではいたが、


「受験に必要だから」という理由で、「古語文法」渋々覚えたヤツも多かったに違いなく、学区のトップ進学校だった前任校にあっても、「古典」が「受験に不要」だった私大理系専願の連中の中には、興味関心全く示さないヤツらも多かった。


そして、大学でのオレ自身、


例えば、第2外国語として選択した独語、まったく読み書き出来ないままに終わっている。


実を申せば大学でオレが身を置いた場所、「英独仏は言うに及ばず、ギリシャ&ラテンも読めなきゃね」という世界だったのだけれど、その分野極める気力も体力も財力もないことに気付いて、ただ単位取るためだけの勉強。
というか、勉強などほとんどせず、講義で扱った「らしい」(まともに出席すらしていなかったからね)テクストの内容、一夜漬けでただ丸暗記したに過ぎない。


当初は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』から始めて、ハイデガー。仏語もこなしてサルトルやらメルロ=ポンティなどと考えていたのだが。(和訳では読んだけどね。原書で読めなきゃダメなのよ)


で、早々にやる気のなくなったオレ、大学では語学のみならず、講義と名の付くものにはほとんど出席せず。
講義には出ないがテスト受けて、テキトーな卒論提出したら、卒業させてくれていたというおそまつ。


つまり、「学び」には「動機」が必要だということ。
それが自身の内から湧き起こったものであるにせよ、「必要」という外から押し付けられたものであるにせよ、「動機」のないところに「学び」は生じない。


オレの担当する『古典』の講座、実のところ、「内的な動機」のある者はほとんどいない。


ならば、残念ではあるが、学ばないのもある意味仕方ない。
だから、最近は、「×」で埋め尽くされる答案用紙を見ても、悲しいとか嘆かわしいとはあまり思わない。


けれども、


高校を「卒業」したい。そのためには単位の修得が必要だから、そのための必要最小限の努力はしよう。という「外的な動機」があるならば、もうちょっと何とかしようと思うはずだよな、とは思う。
そして、『古典』というのは自由選択科目。そこまで興味ねーのなら、選択しなけりゃいーのに、とも思う。


好んで選択したい教科科目ほとんどないから適当に選択、テキストにも講義内容にも興味関心何ら抱けず抱かず、教師が話すこと全く耳に入らず入れず、黒板に書かれた文章を意味のあるものとして理解せず認識もせず、ましてや共感も反発もすることなく、一文字一文字を単なる記号としてノートやプリントに書き写すことが「学び」だと思っている。イヤなのにガマンして出席してんだから、テストは0点でも単位ください、くれるよね。と、考えているらしいことの方が、実は、


途轍もなく悲しい。


「学力」の高低あげつらい評価するのが流行りのご時世、教授者の技量技術を云々すること多いけれど、実のところ、コトはそんなに簡単ではない。


水場に牛馬を引っ張っていくことはできても、喉が渇いていなければ、彼らに水を飲ませることはできないのだから。


大学受験予備校に通う浪人生は言うまでもなく渇き切っているし、
源氏物語』読みたくて「カルチャーセンター」に通うご婦人たちもまた、ある種の中学生や高校生よりも、場合によっては、ある種の小学生よりも遥かに渇いているわけ。


かといって、予備校やカルチャーセンターで教えたいわけでもねーんですけどね。


「学びたいこたぁ自分で学ぼーぜ、学んできたぜ」ってヒトですから、オラぁ。
お節介は、するのもされるのもキライですけん。


てことは、基本、この商売、向いてねーわけさね。 って、今頃気付いても遅ぇ。
いや、気付いてたけど、こーゆーのがいてもいいかな? など、考えたのが……。