あの娘は風になった

新聞眺めてたら、立て続けに「写真」関連著名人が鬼籍に入った報あって、
己が「写真」に入れ込んでた頃のこと思い出す。

生きてるものみないつかは死ぬわけで、そこからは何人も逃れることできないわけだが、

「20代にして後腐れなく逝ってやる」など言って憚らなかったティーンエイジの頃の自分を嘲笑うように、「死ぬまで生きるぜ」と嘯いている今のオレ。

おくりびと』がアカデミー賞受賞して、にわかブームになっており、
そして、観ていないものの、決して悪い映画ではなかろうと想像はするけれど、

「納棺師になりたい人激増」などいう話漏れ聞くと、「それとは話が違うやろ」と呆れる。

現代人は、人であれなんであれ、「死」というもののありようを、自身の心の平安のために出来る限りにおいて隠蔽して来たのだが、にわか騒ぎの中でそういうこと軽々に言い出す輩が多いなら、もっと徹底的に隠蔽した方が良いのかも知れんな、など思ってしまう。

藤原新也がそのブログで、"千の風になって"の流行を、
「生き残った人間が自らを癒し、気持ちよくなるためのひとりよがりな詐術」であり、そのことそのものは否定しないが、「空(くう)のこころがもたらす悟りとはほど遠い、まやかしの死生観であり、歌というそよ風に乗って人をたぶらかす、やわらかいカルトなのである」と断じているが、

身近な人や生き物の死を悼む思いや、死にひた走る己の恐怖心を、こういう「歌」で癒されてしまう者が少なからずいるということそのものが、ヒトという生き物の脆弱さを物語っているように思う。

モノドモを構成する原子なるものは元々、
だだっ広い宇宙のどこかで起きた超新星の爆発によって生み出された。
ゆえに、星から生まれた原子は、星に帰るというのは、あながち比喩ではないらしい。

"あの娘は風になった 俺達は風になった"と、吐き捨てるように歌ったチバの方が、
クールかつ大胆に、そしてまともなアタマで、「死」というものに向き合ってんじゃねーか?

みんな、風になろーぜ。Yeah!